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東京地方裁判所 昭和30年(ワ)9878号 判決 1960年3月19日

原告 紀田重治

被告 国

訴訟代理人 横山茂晴 外三名

主文

一  被告は、原告に対し、金八十七万一千円を支払え。

二  原告のその余の請求は、棄却する。

三  訴訟費用は、これを二分し、その一を原告の負担としその余は被告の負担とする。

第一原告の主張

(請求の趣旨)

原告訴訟代理人は、「被告は原告に対し、別紙第二目録記載の鯉二五八尾を引き渡せ。もし、それができないときは、被告は、原告に対し金三百七十五万六千円を支払え。」との判決を求め、その請求の原因等として、次のとおり陳述した。

(請求の原因)

一  別紙第一目録記載の土地建物と、その庭園池中の第二物件目録記載の観賞用鯉二百五十八尾(以下本件鯉という。)は、原告の所有であるところ、昭和二十一年九月二十七日、連合国進駐軍がこれを接収することになつたので、原告は、同日右土地建物及び本件鯉を、被告(当時は滋賀県知事)に月額金千七百二十九円九十銭で賃貸し、接収解除になつた昭和二十七年五月十三日当時の賃料は、月額金一万五千九百七十一円であつた。

二  その後、原告は、昭和二十七年五月十三日、接収解除に伴う契約解除により、前項の土地、建物の返還を受けたが、本件鯉は、いまだ被告から返還を受けていない。すなわち、昭和二十一年十月七日、被告は右建物の模様替工事に着手したが、その際、ペンキ塗り材料や汚水が池中に流入して池中の本件鯉二百五十八尾が死滅することを慮つた米軍大佐某の命により、部下の米軍曹長ベンジヤミンらが、同月早々、三、四日かかつて、ドラム罐に本件鯉を収容し、これをトラツクに積載して、一時保管のため、大津の進駐軍キヤンプに持ち込んだが、その後その行方は全く不明となつた。

三  本件鯉は、ドイツ鯉を筆頭に、いずれも米各国より購入され、舶来稀有の観賞用鯉として蒐集飼育されていたもので、前記土地の三分の二は本件鯉の飼育観賞用の池にあてられ、琵琶湖の疏水を取り入れて宇治川に流し、常に池中の水と交流させ、中央に築山を施して美観を添えた池中で、本件鯉が群遊する壮観さは筆舌に尽し難く、京都における「鯉の家」として、その名声を轟かしていた。かつては、現皇后陛下を始め各宮殿下の御台覧を忝うし、元首相近衛公その他の政界財界の有名人が来観し、また、福田平八郎画伯ら多数の画家が写生に来観するなど、来観者の絶えることがなかつた。

四  鯉の棲息年数は百年にも及び、原告としては、本件鯉が今日生在していたならば、天然記念物の指定を受けうる自信もあり、それを失うことによる原告の物質的精神的損害は、計かりしれないものがある。

五  しかして、本件鯉は、土地に定着する池、庭木、庭石と類を同じくし、土地の定着物、ないし、従属物とみるべきであるから、本件土地建物の賃貸借契約の締結に伴い、当然その契約の目的に含まれているものである。すなわち、右土地建物は、連合国進駐軍要員家族等の住居の用に供するため接収されたものであるが、およそ、家族等の住居として使用せられる土地建物が、いかなる範囲のものを含むかは、具体的場合によつて多少の差異はあるにしても、土地についていえば、これに定着している庭木、庭石、池中の動植物、建物についていえば、門、塀畳、電気水道設備等は、通常の場合、いずれも、これに包含され、したがつて、特別の意思表示がない限り、住居を目的とする土地建物の総合的賃貸借に、これら土地建物の従属物が当然包括されることは、吾人の日常生活において、しばしば経験するところである。しかして、本件鯉については、これを賃貸借契約の目的とする旨明示されなかつたとしても、土地建物とは無関係に、常に独立して生活の用に供される家具類とは異なり、ただ、それだけの一事をもつて本件鯉が、右契約の目的に含まれないとすることは、土地建物を一体として居住使用するという概念に反する。むしろ、本件鯉は、土地の一部、ないしは、その従属物としての性質上、当然土地に包含され、これと運命を共にするものであるから、契約に当り、これを含む旨をあえて、明示しなかつたのは、その必要がなかつたからというにすぎない。ことに、前記土地建物が進駐軍の家族住宅用として接収されたゆえんのものは、建物が優秀、典雅、豪壮であつたことのほか、庭木、庭石、築山、池水等を始めとして、池中の本件鯉など、土地と不可分の一体を形成した土地建物全体の風致が、進駐軍家族等の好みに適合したからにほかならない。

六  仮りに、本件鯉が賃貸借契約の目的に包含されないとしても、前記昭和二十一年十月上句頃、ベンジヤミン曹長らが、本件鯉を一時保管のために預かり、他に持ち去つた行為、すなわち、占領下における進駐軍の右保管行為は、被告である国の行為としてされたものというべきである。したがつて、その際、原告と被告との間に、本件鯉についてその返還時期を前掲賃貸借契約終了のとき(昭和二十七年五月十三日)とする無償の寄託契約が成立したものというべきである。

七  よつて、原告は、本件賃貸借の終了を原因として本件鯉の返還を求め、もしこれが不能のときは、その不能は被告の責に帰すべき事由によるものであるから、被告が本件鯉を返還しない。ことによる損害の賠償として、被告に対し、第一次的には、賃貸借契約終了を原因とし、第二次的に寄託契約の終了を原因として、本件口頭弁論終結時における本件鯉の価格に相当する金三百七十五万六千円の支払を求めるため、本訴に及ぶ。

なお、被告の抗弁事実は、いすれも否認する。

第二被告の主張

(申立)

被告指定代理人は、「原告の請求は棄却する。訴訟費用は、原告の負担とする。」との判決を求め、請求の原因に対する答弁及び抗弁として、次のとおり陳述した。

(答弁)

一  原告主張の請求原因第一項の事実中、本件鯉がその主張の賃貸借契約の目的に含まれていたことは否認するが、その余の点はすべて認める。右賃貸借契約は昭和二十一年十月七日締結されたものであるが、本件鯉は、その際、すでに存在しなかつた。同じく第二項の事実中、原告主張の日時に、前項の賃貸借契約が解除され、原告は前記土地建物の返還を受けたが、本件鯉の返還を受けていないことは認めるが、その余は争う。

同じく第三、第四項の事実は知らない。その余の各項の事実は争う。

二  昭和二十一年九月二十七日頃、進駐軍から前記土地建物についての調達命令書が当時調達事務を管掌していた滋賀県知事に発せられ、同知事は、これにもとずき、右土地建物(本件鯉以外の屋内ピアノ等三十一点の調達動産を含む。)を進駐軍の用に供するため、同知事に貸与方を申し込み、原告は右申出を承諾したので、滋賀県知事は、同年十月七日、進駐軍の指示にもとずく建物の模様替工事に着手したところ、原告は同月二十日その明渡しを了したが、同年十一月頃、進駐軍が本件鯉を他に搬出して保管中、鯉は全部死んでしまつたから、被告の本件鯉の返還義務は、これにより消滅したものというべく、また、これにより被告に返還義務の履行不能による損害賠償義務が生ずるとしても、それは本件鯉が死んだ昭和二十一年当時における本件鯉の価格によつて算定されるべきであり、しかも、本件鯉の種類数量及び価格は原告主張のとおりではないから、原告の請求は過大に失するというべきである。

三  前記模様替工事は昭和二十一年十二月二十日に完成したが、これよりさき、同年十一月頃、終戦連絡中央事務局から滋賀県知事に対し、接収財産についての賃料評価基準が通達されたので、同知事は、右通達にもとずき、原告に対し、接収財産基本申告書(接収財産について賃貸人から品目、数量及び評価額等の細部の申告をする書面で、これを基準として賃料が算出される。)の提出を求め、原告は、同年十二月二十九日本件土地建物及び前記動産につき申告をしたので、これを滋賀県進駐軍接収土地建物評価委員会の諮問に付したうえ、申告書どおりの物件につき、賃料を月額金千七百二十九円九十九銭と決定し、原告の利益のため、調達命令書発出日たる同年九月二十七日から原告に右賃料の支払いをしたが、原告の提出した申告書には、本件鯉は含まれていなかつた。昭和二十三年四月八日、調達事務を国(特別調達庁)が引き継ぐことになつたので、滋賀県知事は、事務の整理上、引継ぎにさきだち、原告との間に契約書を作成した。しかして、右契約書において契約成立の日を昭和二十一年九月二十七日にさかのぼらせたのは、調達命令書発出の日によつたもので、原告の利益のために賃料の支払を同日からしたことと照応させる意図に出たものである。その後、特別調達庁を経て、調達庁が調達事務を管掌することとなり、賃料については、数次の改訂を経て(調達財産は当初のとおり。)、接収解除の結果、昭和二十七年五月十三日、本件賃貸借契約を解除したものである。解除に際して、被告は、原告に対し、調達財産を約旨に従つて返還し、かつ、調達中の損失補償金として金百四万千九百五十円を支払つたが、その折、原告は、財産調達に関しては一切損害賠償の請求をしないと述べて損害賠償請求権を放棄したのである。なお、原告は同年七月一日、本件鯉について損失補償を陳情し、昭和二十八年七月一日には損失補償を申請し、同年十二月本件鯉について進駐軍事故見舞金の支給方を、それぞれ被告に求めたが、被告は補償金ないし見舞金の支払をすべき場合に該当しないとして、原告の要求に応じなかつたものである。

第三証拠関係(省路)

理由

(争いのない事実)

別紙第一物件の目録記載の土地建物が原告の所有に属すること、被告が、原告から、右土地建物を賃借(その時期については、しばらくおく。)したことは、当事者間に争いがない。

(本件鯉についての賃貸借契約の成否)

一  被告は、前記土地建物についての賃貸借契約は、昭和二十一年十月七日に成立した旨抗争するので審案するに、成立について争いのない乙第二号証、証人紀田寿美子の証言(第一回)によれば、昭和二十一年九月二十七日付で原告と滋賀県知事との間に、右土地建物について、賃貸借契約を締結する旨の賃貸借契約書(乙第二号証)が作成されていること、同日付で原告に対する接収命令が届けられ、原告は、その後、接収に伴う改造工事が着手された同年十月七日頃には、すでに右土地建物を明け渡していることが認められ、右認定にてい触する証人吉村孫三郎の証言は、にわかに全幅の信をおき難く、他に右認定を左右するに足る証拠はない。したがつて、前記土地建物(本件鯉については、しばらくおく。)についての賃貸借契約(賃料が月額金千七百二十九円九十九銭であることは、当事者間に争いがない。)は、原告主張のとおり昭和二十一年九月二十七日成立したということができる。

二  次に、前認定の賃貸借契約が成立した昭和二十一年九月二十七日当時、はたして右土地内の池中に本件鯉が生存していたかどうかについて審究するに、証人今川幸雄、同紀田寿美子(証人紀田については第一回)の各証言を合せ考察すれば、接収の用に供するため賃貸借契約が成立した昭和二十一年九月二十七日の二十日位前、今川幸雄がソールボク小佐らとともに、原告方を訪れた際、右池の中には三尺位の鯉がたくさんおり、赤とか、白あるいは班紋のある鯉等が見られたこと、接収後の同年十月七日頃、米軍の接収係員ベンジヤミン曹長らが、「その上司の命により、接収に伴う建物等の改造工事がすむまで、鯉を米軍のキヤンプ内の池に一時保管する。」と原告の妻紀田寿美子に告げて右池に入り大きな網で本件鯉をすくいあげてドラム罐に収容し、中型ジープに積載して、一日二回ずつ、二、三日にわたつて、これを搬出したこと、紀田寿美子は、ベンジヤミン曹長らが搬出するとき本件鯉の尾数を数えていたところ、二百六十尾位まで数え得たことが認められ、他に右認定を履すに足る何らの証拠もない本件においては、前記賃貸借契約の成立当時、池中には少くとも原告主張のとおり二百五十八尾の本件鯉が生存していたものと認めざるをえない。

三  しかして、原告は、本件鯉は、賃貸借契約の直接の目的である土地建物の従属物であるから、これについても当然、その契約が成立し、効力が及んでいると主張するので審究するに、新聞であることに争いのない甲第二号証の一、二、成立について争いのない乙第二、第四、第七号証、証人今川幸雄、同吉村孫三郎、同獄山滋、同並河徳子、同紀田寿美子及び原告本人の各供述(ただし、証人紀田及び原告本人の供述については、いずれも第一、二回とも。)と検証の結果を総合すれば次の事実が認定される。すなわち、

前掲建物は、並河靖之が大正六年頃、その趣味に応じて作つた堅牢華麗な日本式建築で、縁側の下まで接近している池には観賞用として欠くことのできない黒、白、三色、赤等諸種の鯉を放流し、その数を増加しているうちに、同家は「鯉の家」と呼ばれるに至つたとともに、京都においては珍重されるようになり、現皇后陛下を始め、元皇族や福田平八郎画伯その他の内外国人士が旅行等の途中、観賞写生に立ち寄つていた。並河靖之は、来観者から観覧料は取らなかつたが来観者芳名録を備えていた。同人が他界した昭和二年頃には体長が二尺や二尺五寸位の鯉がいるようになつており、原告が土地建物を譲り受けた昭和十六年頃には、体長三尺位の鯉もいた。その土地の面積は約七百坪で、池の面積は約百坪を占め、その余は、庭園芝生となり、建物部分は約六十坪である。原告は、右土地建物を買い受けてから、余生をここで送る気持になり、以後数年間に百尾位の鯉を新らたに放流したが、次第にその数を増すとともに観賞用鯉に興味を抱き始め、鯉の種類や名称を業者から聞き、鯉に関する知識を広めてきた。しかるに、前記土地建物が進駐軍に接収されることになつた結果、原告は、昭和二十一年九月二十七日、右土地建物を被告(当時は滋賀県知事)に賃貸することとなつた。しかして、その頃、原告らは、進駐軍のベンジヤミン曹長や、その上司であり、右建物に居住する予定のソールボク少佐らから、「本件鯉を観賞したいから置いて行つてくれ」といわれていたが、当時は進駐軍に対し、一般には不服など述べにくい状態にあつたことや、格別他に搬出保管する等の気持もなかつたことなどから、これについて特段の疑義や考慮を示すことなく、従前どおり、池中に放流したままの状態において今川幸雄が接収対象とするため、メモしたその余の調達動産の引渡しと同時に本件鯉を含む右土地建物の明渡を了した。しかるに、契約書には、貸借物件として、単に住宅とのみ記載され賃料は他代家賃統制令にもとずいて算定された。

しかして、従属物すなわち、法律上、いわゆる従物であるためには、主物の所有者において、その主物の常用に供するためこれに附属させた自己の所有にかかるものであることを要するものと解せられるところ、魚類、ことに鯉等の淡水魚は、古来食用魚として飼育されるものを除き、概して庭園池中に放流されることによつて世人に親しまれ、池中に棲息遊泳することによつて、観賞の用に供されるのが常であり、社会通念上、ここに、この種の鯉の大半の存在価値と意義があるものと認められるが、前認定の事実によれば、本件鯉は、並河靖之が飼育放流を始めた当初から、もつぱら庭園風致の維持充実をはかる意思のもとに棲息遊泳させ、池の構造にも特別の設備と工夫を加え客観的に継続して、しかも、その池には、欠くことのできない観賞用の鯉として、飼育してきたことが肯認されるから、本件鯉は、法律上これを見れば右土地の従物と認めるを相当とする。

しかして、また、従物は、主物の法律的運命に従うものであるから、主物である本件土地について、賃貸借契約が締結された以上、特別の意思表示が認められない本件においては、二百五十八尾の本件鯉をも含めて前記賃貸借契約が成立したものというべきである。

(本件鯉が減失したかどうかについて)

被告が原告に対し、本件鯉を返還していないことは当事者間に争いがないところ、被告は、本件鯉は昭和二十一年十一月頃、全部死んでしまつたから、これを原告に返還すべき義務がない旨抗争する。しかして、成立について争いのない乙第六号証の一、二証人今川幸雄、同藤本清、同紀田寿美子の各証言(たゞし、証人紀田については第一回)を総合すれば、接収建物の改造工事は昭和二十一年十二月二十五日に竣功したが、本件鯉は池に戻されなかつたので、紀田寿美子は、今川幸雄と同行して大津の米軍キヤンプ内を種々調査した際、同女は日本人ボーイ某から「ここへ持つてきたその鯉は、みんな死んでしまつた。」と教えられ、更に他の池等を調べたが遂に見当らなかつたこと、及びその後は本件鯉の所在、存否がはつきりしないままになつてしまつたことが認められ、右認定を覆えすに足りる証拠はない。したがつて、本件鯉は、前説示のとおり、ベンジヤミン曹長らによつて搬出保管に付されたのち間もない頃、前記キヤンプ内で全部死んでしまつたものと推認するほかはなく、したがつて、本件鯉自体の返還(引渡)を求める原告の請求は理由がないものといわざるをえない。しかして、前掲賃貸借契約は、本件鯉が昭和二十一年十一、二月頃滅失したため、これを目的とした部分に限り、その頃、独立して終了したと認めるを相当とし、しかも、滅失したことについて被告の責に帰すべからざる事由によることについて何らの主張も立証もない本件においては、本件鯉は少くとも、当時、その保管の責を負うべき立場にあつた被告の責に帰すべき保管義務違反の過失によつて滅失したものと認めるほかはなく、目的物の滅失により契約は終了するが、善良な管理者の注意をもつてすべき保管義務に違反して滅失させた責任は、消滅しないものと解せられるから、被告は、原告に対し、滅失当時における本件鯉の価格に相当する損害を賠償する義務があるといわなければならない。

(損害額について)

一  進んで原告の蒙つた損害額を確定するため、本件鯉の種類、大小(体長)及びその価格について審案するに、証人鳴海真智子、同森聰子、同紀田寿美子(第二回)及び原告本人(第二回)の各供述(ただし、以上いずれも後記措信しない部分を除く。)を総合すれば、本件鯉の種類としては、右四名のそれぞれの記憶を辿つて検討整理した結果、一応別紙第二物件目録記載のとおりとなつたことを肯認しうるけれども、これに証人江原重利の証言竝びに鑑定人江原重利の鑑定の結果を合せて考察すれば、本件鯉の種類としては、別紙第三物件目録記載のとおり(第二物件目録中のドイツ鯉秋翠三色以上とあるを単なるドイツ系の雑種とするほかは、第二物件目録記載と同じ。)であることが認められ、右認定に反する前記証人鳴海真智子、同森聰子、同紀田寿美子及び原告本人(第二回)の各供述部分はにわかに措信しがたく、また、鑑定人辻本元春の鑑定の結果は前掲証拠と比照して、当裁判所をして、その鑑定結果どおりの心証を形成せしめるに足らず、他に右認定を覆えすに足りる証拠のない本件においては、本件鯉の種類は、第三物件目録記載のとおりと認めるほかはない。

しかして、本件鯉の大小については前掲証人鳴海、森、紀田の各証言及び原告本人(第二回)の供述によれば、第二物件目録記載のとおりであることを肯認しうるかのようであるが、その各供述は、極めてあいまい(原告本人は、本件鯉の大小は、三尺位のものだろうという想像で書いただけで、別に科学的に正確なものではない、杜撰ではあるが、これ以上に正確なものはできなかつたと供述し、証人鳴海は、大きい鯉は一米位で、それ位のは五十尾位いたと供述しているにとどまり、その余の証人二名の供述もほとんど軌を同じくし、いかに本件鯉について、お姫様、お殿様、待従等の愛称を附したからといつても、その大小に関しての記憶を基礎づける事実としては、漠然としすぎたのというべく、全幅の信を措くに足るものではない。)であり、これに基いて損害賠償を請求しうる基礎としては、あまりにも根拠に乏しく、到底容認しうべき明確さを示すものとはいえず、他に本件鯉の大小について、原告の主張に副う事実を認めるに足りる明確な証拠はないから、損害額算定の基礎としての本件鯉の大小としては、前認定の種類に属し、かつ、原告の主張するうちの最小の鯉が、少くとも存在したと認定するほかはない。

二  次に、本件鯉の価格について、原告は第二物件目録記載のとおりであると主張するが、証人江原重利の証言並びに鑑定人江原重利の鑑定の結果を合せ考えると、昭和二十一年当時における、一般向中級品以下の価格としては、別紙第三物件目録記載のとおりであることが認められ、右認定にてい触する鑑定人辻本元春の鑑定の結果は、前掲証拠に照らし、その品質等の究明が、必ずしも明らかとはいえないから、そのまま採用しがたく原告の立証は、もとより、本件にあらわれた全証拠によつても前認定を覆えすに足りないから、本件鯉のそれぞれの価格は、さきに認定したように、第三物件目録記載のとおりと認めるほかはない。

しかりとすれば、本件鯉に関する限りにおいて、賃貸借契約が終了した当時における原告の損害に相当する本件鯉の合計価格としては、前認定の種類に属する最小かつ最低価格に原告主張のとおりの尾数を乗じた積、すなわち、合計、金八十七万一千円となり、被告は原告に対し、前記債務不履行による填補賠償として、右金員を支払うべきものといわざるをえない。

(損害賠償請求権の放棄について)

被告は、原告が昭和二十七年五月十三日本来の、土地建物についての賃貸借契約が終了(これが、同目終了したことは当事者間に争いがない。)の際、右契約に関して生ずべき一切の損害賠償請求権を放棄した旨抗争し、成立について争いのない乙第八、第九号証によれば、原告は、調達建物竝びに調達動産については、調達による損失補償金受領の折、当該調達財産の使用について一切の損害賠償を請求しないと述べていることを首肯しうるけれども、右建物竝びに動産に関しての損害賠償を請求しないとの意思表示がただちに、本件鯉についての損害賠償請求権の放棄をも含むとは断じがたく、他に、被告の右主張事実を肯認すべき証拠はなく、かえつて、原告が、本件鯉について、昭和二十七年七月一日損失、補償の陳情を、昭和二十八年七月一日損失補償の申請を、それぞれしていることは、被告の自認するところであるのみならず、証人藤本清の証言によれば、前記建物竝びに動産についての損失補償額には、本件鯉に関する補償は、含まれておらず、当時は規定も不備で、かつ、行政指導及び解釈上、損失補償の方法もなかつたことが認められるから、被告の前記抗弁は排斥せざるをえない。

(むすび)

以上説示したところから明らかなとおり、原告の本訴請求中、すでに滅失したと認められる本件鯉の返還を求める部分は失当であるが、被告が、その保管義務違反の債務不履行により、本件鯉を滅失させたことに基き、その価格に相当する損害の賠償を求める部分は、金八十七万一千円の支払を求める限度においては正当として認容すべく、その余は失当として棄却するほかはない。よつて、訴訟費用の負担について、民事訴訟法第八十九条、第九十二条、第九十五条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 三宅正雄 枡田文郎 金沢英一)

第一物件目録(土地建物)

京都市東山区山科安朱馬場西町拾四番地

一 宅地 六百四拾壱坪弐合

右同所同番地所在

家屋番号同町弐拾壱番地

一木造瓦葺参階建居宅 壱棟

建坪 四拾八坪弐合

外弐階拾坪九合五勺

外参階拾坪九合五勺

右附属

木造瓦葺平家建居宅 壱棟 建坪八坪九合

木造瓦葺平家建居宅 壱棟 建坪弐坪四合

木造瓦葺平家建物置 壱棟 建坪参拾坪

木造瓦葺平家建物置 壱棟 建坪参坪六合

木造瓦葺平家建便所 壱棟 建坪壱坪弐合

土蔵造瓦葺平家建物置 壱棟 建坪四坪六合

第二物件目録(鯉)<省略>

第三物件目録<省略>

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